菅首相のいう最小不幸社会というものがどのようなものか考えてみた。分解すれば不幸が最小な社会ということであろう。

不幸とは何かといえば、幸福の否定であるから幸福でないことであろう。幸福は満ち足りていて幸せなことあり、不平や不満が無いことであるから、つまるところ最小不幸社会というのは、不平や不満の少ない社会を示すのであろう。

不幸という概念は相対出来であり、人によって違う。最小ということは0ではないし、相対基準で0ではないことを示す。ということは不平や不満が最小に近づいていったとしても相対基準が残る限り、Aさんと比較して不幸だ等々は残るので、最小不幸社会が幸せな社会とは考えにくい。

むしろ何をやっても不幸が残るとすれば、いつも不幸社会であり、いづれはそれが最大不幸に思えてしまうのではないかと危惧してしまう。

最小不幸社会は幸福の満ち足りていて幸せな社会を目指さない。不平や不満をなくす社会を目指す。

必要なのは国民全体が幸福に過ごせる社会ではないだろうか。最小不幸社会と最高幸福社会は対義語にはなろうが受けるイメージが全く異なる。

幸福社会はAさんと比較してAさんのようになりたいと思ったBさんがそのために努力できるそしてそれを掴めるかもしれないと思える社会である。その思える状況が「希望」であろう。

最小不幸社会はAさんの良いと思う部分が国やBさんが取り壊してしまうような社会ではないであろうか。

そこには「希望」ない、内向きな足の引っ張り合いになるように感じる。

現在社会では今まで普通と思われてきた雇用、結婚、出産・育児、家や車など社会基盤の重要な部分が失われてきている。

これらは、国から直接に与えられるものでもない。希望や夢を元に個々人が社会との絆の中で少なくとも自分の力で手に入れたものだと思えるものでなければならないと思う。

明日からここで働いてください。明日からこの人と結婚してください。家はこれにしてくださいと国に指示されるとしたらこれは滑稽である。

したがって、目指すべきは希望を持てる社会であり、そのために必要なことは目に見えない壁を取り払うことであろう。それは雇用の流動化であるかもしれないし、世代間格差の是正かもしれない。

経済学者の池田信夫は2009年「希望を捨てる勇気」という書を出している。その最後はこう結ばれている。

"日本に足りないのは希望ではなく、変えなければ未来がないという絶望ではないか"

まさに現在がそのような状況になりつつあるのかもしれない。今必要なのは希望がと持ち続けるというよりかは、希望があることを信じて絶望から立ち上がる勇気、それを邁進する熱意ではなかろうか?

毎日のように人身事故が起きている。事故で片つけてしまって良いのだろうか。彼らには絶望しかなかったのであろうか。

一片の花の美しさ、朝日の神々しさ、人との絆。希望のカケラはどこにでもある。その小さな希望のカケラを見つけて、自らが他の人の希望のカケラになれるように熱意を持って生きて行きたいものである。そしてそれが大きな希望のうねりになっていけば良いと思う。